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清水義也がお話する
黒川能
あくまでも私見ですので、あしからず・・・
山形県の日本海側、鶴岡市から車で20分ほどのところにある、「櫛引(くしびき)」という町。
月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山の麓に、「黒川能」というこの地区の方々が伝承されてきた
能があります。
黒川能は500年以上の歴史を持つとされ、春日神社という村の神社への奉仕の為にその地区の
方々がずっと伝えてきたのです。 この地区の方は農家が多く、豊作への祈願と感謝、これが
彼らが能を伝承する目的です。
☆☆☆☆ 私が考える黒川能の存続 ☆☆☆☆
能といいますと、都会で演じられている能が大成を占めていますが、実はこの黒川能のような
地域での伝承を持つ能というのは数多く存在しました。ではどうしてそれが少なくなったのでしょう?
能が江戸幕府の「式楽(幕府公認の演劇)」となった後、各地方の「藩(今でいう県のようなもの)」
では、自分が召し抱えた能役者に能を演じさせ、また、その流儀を庇護してきました。
明治維新以後、この召し抱えられた役者たちは、庇護して下さった武士を失い、能役者を辞める者が
多く出ました。 その中でも能を続けようと思った能役者たちは、地域で伝承している能に入り込み、
「能を教える」という立場で、自分たちの芸を存続させるわけです。
黒川能は、そのような中央の能の侵食を免れる為に、独自で能面・能装束を揃え、独自の演目を
増やし、今では500曲以上が伝承されています。
また、独自の奉納演目である「大地踏」などは、中央の能では理解できない、農耕民族の力強い
伝承を感じさせます。 こういう演目を独自に作っていたから、黒川能は中央の能に侵されることなく
伝承されてきたのだと思います。
江戸時代、困窮していた頃は、黒川でも能の存続の危機は何度もあったようです。「上演出来る
演目は10曲くらいしかありません」などということを書いた記録もあるので、その様子が窺がえます。
(これは、わざと書いてカモフラージュをしたのかもしれませんが・・・)
「500もの演目がある」のは、実は昔からではなく、明治時代からなのです。芸を競って上演する
演目を増やしたそうですが、真相は前述した中央の能の侵食を恐れた為ではないかと思います。
500曲もの演目があったら、中央の能役者が知らない演目だって多かったと思います。
それを誇示されたら、中央の能役者だって入り込めないでしょうからね・・・。
ただし、中央の役者から実際に習ったりして、演目を増やしたのも事実。そこが黒川の巧みさだと思います。
欲しいものは手に入れる。停滞するのではなくて、常に先を見越しているわけです。だから、侵食されずに
返って自分の勢力を広げる。すごいエネルギーだと思います。
昭和初期には、黒川能の方たちが中央の能に何度か足を運んでいたようです。中央の能の
洗練された動きを見て、黒川の方たちは発奮なさったことでしょう・・・。
それでも黒川能は、独自の路線は崩さなかったのです。いかに自分たちの伝承に自信が
あったのかを伺い知れます。
☆☆☆☆ 以上が私の考えです。 ☆☆☆☆
年に何度となく黒川に通っていますが、通えば通う程、入り込んではいけない領域を感じます。
黒川の芸を侵してはいけない・・・と。 これは、能役者を「仕事」としている私の感性では
なくて、能というものがただ単に好きな私が、そう思わせているのだと思います。
黒川能。・・・櫛引の方が伝承している芸に敬意を払い、これからも傍らから見続けます。
では、実際の「黒川能」についてのお話しを進めていきましょう。
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